レスリング男子グレコローマンスタイルで活躍する曽我部京太郎選手。2024年にはパリオリンピックの67kg級に日本代表として出場し、世界の舞台を経験しました。
そんな曽我部京太郎選手について、
- 「父親はどんな人?」
- 「実家はどんな家庭なの?」
と気になっている人も多いですよね。
曽我部京太郎選手の父親を調べると、地元・愛媛県今治市で造船関連会社を経営する曽我部耕司さんであることがわかります。さらに、父親の耕司さんとレスリング指導者との縁が、曽我部京太郎選手の競技人生につながっていました。
そこで当記事では、曽我部京太郎選手の父親を中心に、実家や家族、弟、出身、高校、大学、身長、オリンピックでの活躍について紹介していきます。
- 曽我部京太郎選手の父親の名前や職業
- 父親とレスリングとの意外な関係
- 曽我部京太郎選手の実家や家族構成
- 高校・大学時代やオリンピックでの活躍
曽我部京太郎の父親は造船会社社長の曽我部耕司
曽我部京太郎選手の父親は、曽我部耕司さんです。耕司さんは愛媛県今治市にある造船関連会社「有限会社アイワベネフィット」の代表取締役社長を務めています。
父親自身がレスリングの有力選手だったと思われるかもしれませんが、耕司さんにレスリング経験はありません。それでも曽我部京太郎選手が幼いころからレスリングに触れることになった背景には、父親の人とのつながりが大きく関係しています。
父親は有限会社アイワベネフィットの代表取締役社長
曽我部京太郎選手の父親・耕司さんは、有限会社アイワベネフィットの代表取締役社長です。同社は愛媛県今治市立花町に拠点を置く造船関連企業で、2005年7月に設立されています。
資本金は300万円で、1974年創業の愛和工業株式会社を母体とするグループの一社です。新造船の組み立てなど、造船の街として知られる今治市の基幹産業に関わる事業を展開しています。
曽我部京太郎選手が日本レスリング協会公式サイトのプロフィール欄で「子供の頃、大きくなったら何になりたかったですか?」という質問に「社長」と答えているのも、お父さんの影響なのかもしれないなぁと思いました。
つまり、曽我部京太郎選手の父親は地元・今治市で造船関連会社を経営する人物ということですね。曽我部京太郎選手は、経営者である父親のもとで育ちながら、幼少期から競技に打ち込んできました。
父親にレスリング経験はなく恩師との縁が競技のきっかけ
曽我部京太郎選手の父親・耕司さんは、レスリング経験者ではありません。父親と高校時代の同級生だったレスリング指導者・越智雅史さんとの縁が、曽我部京太郎選手とレスリングを結びつけるきっかけになりました。
耕司さんは子どもが生まれる前、越智さんに「いつかオレに子どもができたらレスリングを教えてよ」と話していたそうです。その後に生まれた曽我部京太郎選手は、幼稚園時代に越智さんが指導するクラブでマット運動に触れました。
一時はレスリングから離れ、スイミングやピアノも経験しましたが、小学3年生のころに本格的にレスリングを始めています。父親自身が選手として技術を教えたわけではなく、人との縁によって競技への入口を作った形ですね。
曽我部京太郎選手が後にパリオリンピックへ出場するまで成長したことを考えると、父親と越智さんの学生時代からのつながりは、競技人生の原点になったといえそうです。
父親が語る負けず嫌いな性格と人一倍の努力
曽我部京太郎選手の父親・耕司さんは、幼少期の息子について活発で素直、不器用で負けず嫌いな子どもだったと振り返っています。負けず嫌いな性格は、結果が出ない時期にも練習を続ける原動力になっていたようです。
曽我部京太郎選手は中学時代、全国大会でなかなか上位に入れない時期がありました。しかし、父親の前で悩んでいる様子を見せるというより、とにかく練習量を増やし、一つずつ勝てるようになることを喜びながら努力を続けていたといいます。
クラブでの練習を終えて帰宅したあとにも、ロープ登りや体幹トレーニングに取り組んでいました。恩師から教わった「人一倍」という考え方を実践していたことがわかります。
父親が競技を直接指導するのではなく、曽我部京太郎選手の意思や努力を見守ってきた点も印象的ですね。父親が作ったレスリングとの縁と本人の負けず嫌いな性格が重なり、世界へ挑戦するレスラーへと成長していったのでしょう。
曽我部京太郎の実家は愛媛県今治市で造船関連会社を経営
曽我部京太郎選手の実家は愛媛県今治市にあります。父親の耕司さんが造船関連会社を経営していることから、実家の家業も今治市を代表する産業の一つである造船と深く関わっています。
さらに、曽我部京太郎選手は幼いころから自宅でも自主トレーニングを続けていました。世界で戦うレスラーへ成長した背景には、競技に集中できる環境と本人の地道な努力があったことがうかがえます。
実家の会社は今治の造船業を支える企業
曽我部京太郎選手の実家では、父親の耕司さんが「有限会社アイワベネフィット」を経営しています。
同社は愛媛県今治市立花町にあり、新造船の組み立てなど造船関連の事業を手掛ける企業です。2021年7月時点の従業員数は60人、グループ全体では130人とされています。
曽我部京太郎選手の実家は、造船業が盛んな今治市で造船関連事業を営む家庭ということですね。父親が会社を経営しているため裕福な家庭なのか気になる人もいるかもしれませんが、家庭の具体的な資産状況などは公表されていません。
自宅でもロープ登りや体幹トレーニングに励んでいた
曽我部京太郎選手は、クラブで与えられた練習だけをこなしていたわけではありません。小学生から中学生のころには体が細く、全国大会で思うような結果を残せない時期がありました。
それでも競技から離れることなく、クラブで練習したあとにも自宅でロープ登りや体幹トレーニングを続けていたとされています。結果が出ない時期にも自主的に練習量を増やしていたことが、曽我部京太郎選手の大きな特徴です。
恩師の越智雅史さんからも、全体練習後に追加練習を提案すると必ず残る選手だったと評価されています。キツい練習でも嫌な顔を見せず、人より多く練習する姿勢を身につけていったそうです。
曽我部京太郎選手の強さには、実家のサポートだけでなく、自ら練習を積み重ねる姿勢が大きく影響しているのでしょう。
曽我部京太郎の家族構成は父親・母親・姉・弟の5人家族
曽我部京太郎選手は、父親・母親・姉・本人・弟の5人家族です。父親の耕司さんだけでなく、姉や弟も曽我部京太郎選手の進路や競技人生を語るうえで欠かせない存在となっています。
特に3歳年下の弟・凛太郎選手もレスリングで活躍しており、兄と同じ進路を歩んでいます。家族それぞれについて詳しく見ていきましょう。
母親の恵が競技生活を支える
曽我部京太郎選手の母親は恵さんです。父親の耕司さんと比べると、母親について公表されているプロフィールや具体的なエピソードは多くありません。
そのため、職業など公表されていない内容についてはわかりませんが、曽我部家では京太郎選手だけでなく弟の凛太郎選手もレスリングに取り組んでおり、母親の恵さんも家族の一員として2人の競技生活を見守ってきたと考えられます。
曽我部京太郎選手は学生時代から朝練や放課後の練習を続け、大学進学後には日本トップレベルの競技生活を送ってきました。競技と学校生活を両立するには、本人の努力だけでなく周囲の理解も重要だったでしょう。
母親について詳しい情報が今後明かされれば、曽我部京太郎選手を家庭でどのように支えてきたのかも見えてくるかもしれませんね。
姉の小雪は今治西高校の先輩
曽我部京太郎選手には、3歳年上の姉・小雪さんがいます。小雪さんは愛媛県内でも進学校として知られる今治西高校の出身で、京太郎選手にとって進路を考えるうえでも身近な存在でした。
父親の耕司さんは、京太郎選手が今治西高校を選んだ背景について、姉に負けたくないという思いもあったのではないかと振り返っています。曽我部京太郎選手の負けず嫌いな性格は、レスリングだけでなく勉強や進路にも表れていたのかもしれません。
今治西高校にはレスリング部がなかったため、競技だけを考えるなら別の高校を選ぶ方法もありました。それでも姉と同じ進学校を選び、勉強とレスリングを両立する道を進んでいます。
小雪さん自身の詳しい現在については公表情報が限られていますが、京太郎選手の高校選択に影響を与えた存在として、姉弟の関係性が感じられるエピソードですね。
弟の凛太郎もレスリング選手として活躍
曽我部京太郎選手の弟は、3歳年下の曽我部凛太郎選手です。凛太郎選手もレスリングのグレコローマンスタイルで活躍しており、兄弟そろって高いレベルで競技を続けています。
凛太郎選手は今治市立立花中学校から今治西高校へ進み、その後は日本体育大学へ進学しました。中学・高校・大学と兄の京太郎選手と同じ進路を歩んでいる点からも、兄の存在が大きな目標になってきたことがうかがえます。
2026年の全日本選抜選手権では、京太郎選手が67kg級、凛太郎選手が72kg級で優勝。兄弟そろって世界選手権の日本代表に内定するという大きな結果を残しました。
父親が友人との縁から京太郎選手をレスリングへ導き、さらに弟の凛太郎選手も世界を目指す選手へ成長したことになります。曽我部兄弟がそろって国際舞台で活躍する姿にも注目ですね。
曽我部京太郎の出身は愛媛県今治市
曽我部京太郎選手は、2001年7月3日に愛媛県今治市で生まれました。幼少期から高校卒業まで地元で過ごし、今治市でレスリング選手としての土台を築いています。
中学時代までは全国大会で思うような結果を残せない時期もありましたが、そこで諦めなかったことが高校時代の飛躍につながりました。
小学3年生から本格的にレスリングを始める
曽我部京太郎選手とレスリングとの接点は幼稚園時代までさかのぼります。父親の友人である越智雅史さんが指導するクラブでマット運動に親しみましたが、その後はいったんレスリングから離れました。
スイミングやピアノなども経験したものの、本格的にレスリングへ戻ったのは小学3年生のころです。転校をきっかけにレスリングクラブの近くへ戻り、同級生から誘われて今治少年レスリングクラブへ入団しました。
曽我部京太郎選手は幼少期からエリート選手として勝ち続けていたわけではありません。本人は体を動かすことが好きで、体力テストではA評価だったと振り返っていますが、競技では地道に経験を積み重ねていきました。
父親が作った指導者との縁に加え、友人からの誘いも重なってレスリングを再開したことを考えると、いくつもの出会いが現在の競技人生につながっていることがわかりますね。
中学時代は結果が出なくても人一倍の練習を続けた
曽我部京太郎選手は今治市立立花中学校へ進学しましたが、中学時代は全国大会の表彰台になかなか届きませんでした。それでも目標を下げるのではなく、常に1番を目指して練習を続けています。
本人は、2番や3番を目標にすれば練習も同じレベルになってしまうという考えを持っていました。結果が伴わない時期にも1番を目標にし続けた姿勢が、その後の急成長につながったと考えられます。
恩師の越智雅史さんから教えられたのが「人一倍」という考え方でした。ほかの選手との差があっても、1日でも多く練習すれば追いつけるという言葉を受け、追加練習や自宅でのトレーニングを積み重ねました。
中学時代の苦しい経験は、後に世界を目指す曽我部京太郎選手の精神的な土台になったのでしょう。結果が出なくても努力量を落とさなかった点に、強さの原点が見えてきます。
曽我部京太郎の高校は進学校の今治西高校
曽我部京太郎選手の出身高校は、愛媛県立今治西高等学校です。県内有数の進学校として知られる一方、当時はレスリング部がありませんでした。
それでも今治西高校を選び、近隣の今治工業高校へ出稽古しながら競技を継続。高校3年間で国体3連覇を達成するなど、一気に全国トップクラスへ成長しました。
姉への負けず嫌いな気持ちも進学の原動力
曽我部京太郎選手は、県内有数の進学校である今治西高校へ進学しました。背景には、3歳年上の姉・小雪さんの存在もあったようです。
競技に集中できるレスリング強豪校を選ぶ道も考えられますが、曽我部京太郎選手はレスリング部のない進学校を選択しました。勉強でも姉を意識しながら、高いレベルで文武両道を目指したことがうかがえます。
父親が語っていた幼少期からの負けず嫌いな性格が、高校選びにも表れているようで興味深いですよね。
レスリング部がなく今治工業高校へ出稽古
今治西高校にはレスリング部がなかったため、曽我部京太郎選手は約2km離れた今治工業高校へ通って練習を続けました。放課後には自転車で移動し、出稽古という形でレスリングに取り組んでいます。
朝の練習を終えて今治西高校で授業を受け、夕方には今治工業高校で再び練習するというハードな日々を3年間続けました。レスリング部がないことを言い訳にせず、自分から練習できる場所へ通い続けた点は曽我部京太郎選手らしいエピソードです。このように勉強とレスリングの練習の両立をしていたというのは、並大抵のことではないなと驚いてしまいます。
指導に当たったのは、幼いころから関係が続いていた越智雅史さんです。父親の耕司さんと越智さんの高校時代からの縁が、高校生になった京太郎選手の競技環境にもつながっていました。
学業と競技の両立に加えて学校間の移動まで必要だった環境を考えると、高校時代に積み重ねた練習量と継続力の大きさがわかりますね。
高校時代に国体3連覇を達成
曽我部京太郎選手は高校進学後、それまでの努力が一気に結果へ表れ始めました。高校1年生だった2017年の愛媛国体では、少年男子グレコローマンスタイル55kg級で優勝しています。
しかも地元開催だった愛媛国体では、初戦から決勝まで相手に1ポイントも与えない圧倒的な内容でした。その後も高校2年生で60kg級、高校3年生で65kg級を制しています。
高校3年間で階級を上げながら国体3連覇を達成し、史上10人目となる快挙を成し遂げました。全国高校グレコローマン選手権や全国高校選抜大会でも結果を残し、高校生ながら全日本選手権で3位に入った経験もあります。
中学時代まで全国の表彰台に届かなかった曽我部京太郎選手が、高校で全国トップへ飛躍した背景には、結果が出ない時期から続けてきた「人一倍」の練習があったのでしょう。
曽我部京太郎の大学は日本体育大学
曽我部京太郎選手は今治西高校を卒業後、2020年に日本体育大学へ進学しました。高校時代に全国トップクラスへ成長した後も競技への取り組みを緩めず、大学では日本一から世界で戦う選手へとステップアップしています。
大学進学について本人は迷いがなかったと語っており、オリンピックを目指せる環境を求めて日体大へ進みました。
日体大以外への進学は考えていなかった
曽我部京太郎選手は大学進学について、ほかの大学へ行くという選択肢は頭になかったという趣旨の発言をしています。幼いころから指導を受けてきた環境とのつながりもあり、日本体育大学への進学を強く希望していたことがわかります。
日本体育大学はレスリングの強豪として知られ、国内外のトップレベルを目指せる環境があります。曽我部京太郎選手にとって日体大への進学は、オリンピックで金メダルを目指すための重要なステップだったのでしょう。
高校時代はレスリング部のない学校から別の高校へ出稽古していましたが、大学では強豪選手が集まる環境に身を置くことになりました。練習相手や指導環境が変わったことも、競技力をさらに高める要因になったと考えられます。
高校まで地元・今治市で磨いた基礎を持って東京へ進み、曽我部京太郎選手は世界を目指す本格的な挑戦を始めました。
大学時代に世界レベルのレスラーへ成長
日本体育大学へ進学した曽我部京太郎選手は、国内だけでなく国際大会でも結果を残す選手へ成長しました。
大学3年生だった2022年には全日本学生選手権で優勝し、全日本選手権男子グレコローマン67kg級でも初優勝しています。
同年のU23世界選手権では3位に入り、世界大会でも表彰台を経験。2023年にはアジア選手権で2位、ドイツ・グランプリで優勝するなど、国際舞台で実績を積み重ねました。
高校時代の国内トップ選手から、大学時代には世界でメダルを争うレスラーへ成長したことがわかります。全日本選抜プレーオフを制して世界選手権にも出場し、パリオリンピックへの道を切り開いていきました。
中学時代には全国大会で表彰台に届かなかったことを考えると、長期間にわたって努力を積み重ねた曽我部京太郎選手の成長ぶりがよくわかりますね。
曽我部京太郎の身長は169cmで67kg級
曽我部京太郎選手の身長は169cmで、男子グレコローマンスタイル67kg級を主戦場としています。高校時代から成長に合わせて55kg級、60kg級、65kg級と階級を上げ、現在は67kg級で世界と戦っています。
体格だけでなく、幼少期から持っていた柔軟性や長年のトレーニングで培ったスタミナも大きな武器です。
柔軟性とスタミナが大きな武器
曽我部京太郎選手の身体的な特徴として、幼いころから高く評価されていたのが柔軟性です。恩師の越智雅史さんは、小学生でクラブへ戻ってきたころから体が柔らかく、技を返されても体を反転させるような動きが印象的だったと振り返っています。
さらに、長年の厳しい練習によって高いスタミナも身につけました。クラブでの全体練習が終わったあとも追加練習に残り、自宅でもトレーニングを続けるなど、練習量を積み重ねています。
身長169cmの体に備わった柔軟性と、人一倍の練習で鍛えた筋力・スタミナが曽我部京太郎選手の強みといえそうです。
レスリングでは単純な身長や体重だけではなく、技術や体幹、柔軟性、持久力などさまざまな要素が勝敗に影響します。幼いころの身体的な長所を長年の努力で伸ばしてきたことが、世界で戦える強さにつながっているのでしょう。
曽我部京太郎はパリオリンピックに出場
曽我部京太郎選手は2024年4月、キルギスで行われたパリオリンピックのアジア予選を勝ち抜き、男子グレコローマンスタイル67kg級の日本代表に内定しました。
初めてのオリンピックでは悔しい結果となりましたが、その経験を次への原動力にしています。現在は次の大舞台で頂点に立つことを目標に競技を続けています。
パリ大会は男子グレコローマン67kg級で14位
曽我部京太郎選手は2024年のパリオリンピックに男子グレコローマンスタイル67kg級の日本代表として出場しました。
アジア予選で代表権を獲得した直後から、本人が見据えていたのは出場そのものではなく金メダルでした。しかし、本大会では勝ち進むことができず、最終順位は14位となりました。初めてのオリンピックは世界との差と悔しさを実感する大会になったといえます。
曽我部京太郎選手はパリ大会後も、負けた悔しさを忘れていないという強い思いを語っています。幼いころから負けず嫌いだったという父親の言葉を考えると、敗戦を次の練習へのエネルギーに変える姿勢は昔から変わっていないようですね。
オリンピック出場という大きな目標を一度達成したあとも、曽我部京太郎選手にとって本当のゴールは金メダルなのでしょう。
ロサンゼルスオリンピックで金メダルを目指す
パリオリンピックを経験した曽我部京太郎選手は、次のオリンピックでの金メダル獲得を目指して競技を続けています。パリ大会の敗戦を忘れず、最高の形で優勝したいという強い意欲を示しています。
2026年の全日本選抜選手権では男子グレコローマン67kg級で優勝。同大会では弟の凛太郎選手も72kg級で優勝し、兄弟そろって世界選手権の日本代表に内定しました。
パリオリンピックで終わるのではなく、敗戦を次の挑戦につなげていることが曽我部京太郎選手の現在地です。国内大会や世界選手権などで実績を積み上げながら、次のオリンピックを見据えています。
中学時代に勝てなかったころから「1番」を目標にしてきた曽我部京太郎選手。世界の頂点という目標に向け、今後どのような成長を見せてくれるのか注目ですね。(出典:日本レスリング協会)
曽我部京太郎の父親や実家・家族まとめ
当記事では、曽我部京太郎選手の父親を中心に、実家や家族、弟、出身、高校、大学、身長、オリンピックについて紹介しました。
父親は愛媛県今治市で造船関連会社を経営する曽我部耕司さんで、レスリング経験者ではありません。しかし、友人だった指導者・越智雅史さんとの縁を通じて、息子がレスリングと出会うきっかけを作りました。
実家は愛媛県今治市にあり、家族は父親・母親・姉・京太郎選手・弟の5人家族です。弟の凛太郎選手もレスリングで活躍し、兄弟そろって世界を目指しています。
レスリング部のない今治西高校から日本体育大学へ進み、パリオリンピック出場までたどり着いた曽我部京太郎選手。父親がつないだレスリングとの縁と「人一倍」の努力を力に、次のオリンピックで悲願の金メダルを獲得できるのか注目していきたいですね。


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